楽劇(オペラ)《白峯》 ―演奏会形式―  
  

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浜千鳥 跡は都へ 通えども
      身は松山に 音をのみぞ鳴く
              
                  崇徳上皇

浜千鳥と同じように、筆跡〈写経〉のみは懐かしい都へ通っていくが、 自分は松山で帰京の日を待ち焦がれながら声をあげて泣くだけである
西行法師の歌   
   松山の 浪に流れて 来し船の やがてむなしく なりにけり
   松山の 浪のけしきは 変わらじを かたなく君は なりましにけり
   よしや君 昔の玉の 床とても かからむ後は 何かはせむ
西行はこの歌を御陵に捧げたのち、朝の光の中を退去した。下ってゆく山の木立のなかは鳥の声で満ちていた。
                                      (『西行花伝』辻邦生(新潮文庫))
松山にうちよせる波に流されてきた船が、都へも帰れずにやがてむなしく朽ち果ててしまった ― 船とは崇徳院のことか 松山の海に寄せる波の景色は昔も今も変わらないであろうに、この景色を眺めて暮された崇徳院はすでにお亡くなりになってしまったたとえ君には 昔は金殿玉楼にお住まいになっていたとしても、こうしてお亡くなりになって現世を離れている今では、そんな現世の身分や優越感何もなりません。 ご往生ください。      (解釈は『雨月物語』鵜月洋 角川ソフィア文庫による)

 絵にみる三大魔縁    挿絵家・佐竹美保                
 「文明の融和」 シルクスクリーン   画家 ・ 三浦利文 
阿弥陀経と不住涅槃の菩薩    中村元 東方研究所・研究員 博士(文学)武田浩学 
「文化人の気魄」    声楽家・木村俊光
                     

  絵にみる三大魔縁 
          
 安永5年(1776)刊行 上田秋成「雨月物語」の挿絵
絵:歌川国芳(1797-1861)


平成の大魔縁(2012)

《白峯》のチラシの絵は挿絵家・佐竹美保さんの大魔縁(2012年金原瑞人著ストーリで楽しむ日本の古典「雨月物語」から)を使わせていただきました。 大変好評です。
佐竹さんにこの絵に込められた思いについて一文をいただきました。左の挿絵をご覧になりながらお読みいただければ幸いです。 (大西)

この絵は児童書、「雨月物語」(岩崎書店)の中の「白峰」の挿絵として描いた絵です。
この崇徳院のすざましい負のエネルギーを紙面で表すために、怨念の象徴のような長く伸びた髪と燃え上がった姿を、木々の枝や闇、揺さぶられる空気に一体化させました。 ただ恐ろしい姿だけを描いても、どれほどの怨念であるのか想像させられないと思ったからです。
筆による墨のゆらぎが怨念と周りの空気が共振する様を出してくれました。

文明の融和

《白峯》を進めるなかで、三浦利文先生の作品「文明の融和」を知りました。
是非見せていただきたいとお願いしましたら、お手紙を添えて左の作品を送ってきてくださいました。
対立するものの融和が どのような美しい世界を作り出すか、視覚的に理解出来ました。
音楽的には丹波先生の《白峯》で皆さまに楽しんでいただければ有り難いです。(大西)

   三浦利文先生からの手紙
この度は思いがけず興味深いオペラを鑑賞することができそうで楽しみにしております。
私の作品はささやかなものですが、たまたま衝突する文明に対して、融和を願って10年程前に制作したものです。
シルクスクリーンによる、この《融和》は、《文明の融和》を制作するために先行した試作です。
対立する色彩の様々な融合と対比による互いを際立たせる効果をねらったものです。
合わせて、この頃は宇宙への関心もあり、そのようなイメージも織り込みたいと考えたようです。
異質なものの衝突は、対極にある程互いを際立たせぞくっとする鳥肌の立つような美しい均衡を生む。
『白峯』はそんな期待をいだかせます。公演の成功を祈っております。




阿弥陀経と不住涅槃の菩薩(ふじゅうねはんのぼさつ)
武田先生  前田先生

      
 
中村元 東方研究所・研究員 博士(文学) 武田浩学先生に聞く 
 
質問
お客様にこのオペラを本当に理解してもらうためには当時の時代の思想、阿弥陀経を知っていただきたいと考えました。 平安末期、阿弥陀経は人々にどのように受け入れられたかをお教えいただければ有り難いです。(2014年3月2日)

武田先生からのご返信
小生は、初期の大乗仏教および浄土教を専門にし、親鸞の浄土真宗の僧籍を有する者ですが、日本の文学や歴史については、 左程、知見を有してはおりません。その点、不足する事もあろうかと存じますが、 「作曲家・丹波明先生が阿弥陀経を前田專學先生(中村元 東方研究所理事長)から教えていただいた」、 また、「大西様はサンスクリットで阿弥陀経をお読みになった」とのこと、その点を前提にして、 阿弥陀経や保元の乱のころについて、以下に、幾つかの基本的情報を、お知らせします。御存知のこともあろうと思いますが、興味を引かれるものがありましたら幸いですし、その他も含め、何かありましたら、お気軽におたずね下さい。

@『保元物語』によると、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、 五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、 戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河院は 「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳院は、 舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」 と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。 ただし、浄土三部経は書写していない。

A後白河上皇 (1127−1192)(大治2−元久3)。嘉応元(1169)年、出家して覚忠に受戒、法皇となり、 行真と号した。 浄土宗の祖法然上人を招いて、円頓戒(えんどんかい)や、『往生要集』の講説を受けており、 これに感動した法皇は藤原隆信に命じ法然上人の真影を描かせた。 これが知恩院蔵の「隆信の御影」である。 承安2年(1172年)、法住寺殿の南に滋子御願の新御堂が建てられることになり、2月3日に上棟式が行われた(『百錬抄』『玉葉』同日条)。 これに先立つ嘉応2年(1170年)4月19日、後白河院は東大寺で受戒するため奈良に向かう途中、 宇治の平等院に立ち寄り、本堂で見取り図を閲覧している(『兵範記』同日条)。承安元年(1171年)11月にも滋子を連れて再訪しているので (『玉葉』11月1日条)、平等院をモデルに造営する計画だったと思われる。


B平等院(宇治)は、平安時代後期、天喜元年(1053)に、時の関白藤原頼通によって建立された阿弥陀堂です。 華やかな藤原摂関時代をしのぶことのできるほとんど唯一の遺構として、このうえなく貴重な建築です。 最も大きな特徴は池の中島に建てられていることで、あたかも極楽の宝池に浮かぶ宮殿のように、その美しい姿を水面 に映しています。
堂内の中央には金色の丈六阿弥陀如来坐像が端坐し、周囲の壁および扉には九品来迎図、阿弥陀仏の背後の壁には極楽浄土図が描かれています。 そして左右の壁の上部には52体の雲中供養菩薩像が懸けられています。当時の人々は鳳凰堂を地上に出現した極楽浄土ととらえていたのです。


C平安時代末期の浄土教。「末法」の到来。
「末法」とは、釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、 「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としている。 本来「末法」は、上記のごとく仏教における時代区分であったが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない 終末論的な思想として捉えられるようになる。よって「末法」は、世界の滅亡と考えられ、 貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、 死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。 末法が到来する永承7(1052年)年に、関白である藤原頼通が京都宇治の平等院に、 平安時代の浄土信仰の象徴のひとつである阿弥陀堂(鳳凰堂)の建立をはじめ、翌天喜元年(1053年)に完成した。 阿弥陀堂は、「浄土三部経」の『仏説観無量寿経』や『仏説阿弥陀経』に説かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、 外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。「極楽が信じられないなら宇治の御堂を敬え」と当時の謡曲でも謡われた。 この頃には阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、定印を結ぶ阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになる。阿弥陀堂からは阿弥陀来迎図も誕生した。 平等院鳳凰堂の他にも数多くの現存する堂宇が知られ、主なものに中尊寺金色堂、法界寺阿弥陀堂、白水阿弥陀堂などがある。


D阿弥陀経は、起承転結の物語を持つ経典としては、最も短いものの一つで、浄土三部経の中でも読経が容易であり、 特に、鳩摩羅什の漢訳は名文・名調子で、小生の経験では、読経の僧侶および聴衆を「悦に入らせる」あるいは「瞑想の境地に誘う」ほどのものである。現在でも葬送儀礼の際などには、 浄土宗・浄土真宗などの浄土教系のみならず、天台宗・真言宗などの密教系でも当然のように用いられる。


E阿弥陀経の白眉は、臨終来迎(俗に言う「お迎え」)を説く一段、「もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、 名号を執持する(念仏を称える)こと、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と、現じてその前にましまさん。この人、終わらん時、心顛倒せずして、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得ん」。阿弥陀二十五菩薩来迎図などは仏教美術絵画を代表するものです。


Fもう一つは大宇宙を夢想させる一段「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う」です。 インターネット上の情報にはこうあります。
「十万億土」とは「十万億仏国土」の略で、仏国土の大きさが, 例えば、1BW(Buddha World)とすれば、仏国土が互いに接しているとすると、まっすぐ西に進んで、 十万億の仏国土を過ぎると西方極楽浄土ですから、十万億土は10万億BWという距離になります。 三千大世界が、一仏国土と考えてみましょう。
これは、サバー世界のような世界が千集まり、 そういう世界(小千世界)が千集まって中千世界となり、中千世界が千集まって大千世界となり、 これを三千大世界と呼ぶのです。三千大世界を、かつては釈迦仏陀がいたのですから、 直径100天文単位の太陽系だとすると、これを一仏国土とすると、十万億BWは、1000万億天文単位となります。 これは、光年に換算すると、約160億光年になります。大体、宇宙の直径です。これは、光で進むと、 160億年かかる距離で、とても49日で行ける距離ではありません。



以上を整理しますと、例えば、次のようになるでしょう。 平安時代末期、末法の到来を裏付けるかのように、災害や戦乱が頻発し、文化は退廃し、秩序は乱れ、社会は不安と動乱の渦中にあった。人生の無常、人間の愚かさ・罪深さに絶望した人々は、皇族・貴族から庶民に至るまで、身分の上下も敵味方の区別も無く、大宇宙の彼方にあるという、阿弥陀仏の荘厳な極楽浄土へ生まれ行くことをひたすら求めた。 極楽浄土には「天女が奏でる妙なる調べに満ち、天空には美しき花々が舞い、六種の珍鳥がさえずりを聴かせている」という。 そして、極楽浄土を説く三つの経典の中でも、最も簡潔で流麗な阿弥陀経は、「命を終える者の枕元に阿弥陀仏が麗しくも厳かに迎えに来る」という、ドラマチックな来迎を説く一段を有することで、今なお読み継がれ、我々日本人の心に、無意識の裡にも、大いなる安息を約束している。 以上です。


  追伸   オペラ白峯期待しております。
また、「闡提であろうと心を翻せば(回心すれば)極楽浄土に往生できる」というのは、法然の師、善導の有名な文言です。
ところで、引声阿弥陀経会はごぞんじでしょうか。小生は残念ながら聴いたことが無いのですが。 阿弥陀経を独特の調子で鉦に合わせて唱えます。慈覚大師円仁が渡唐した際、五台山において生身の文殊菩薩から、 極楽世界八功徳池の波の音に唱和する「引声阿弥陀経」(いんぜいあみだきょう)を伝授されたというものです。 お経の一節を長く引いて唱える「声明」の一種で、現在は真如堂(京都市左京区浄土寺真如町82)だけに残される珍しいもの。(3月3日)

再質問
「お気軽におたずね下さい」のお言葉に甘えさせていただきまして、一つお教え願いたいことがございます。
崇徳上皇は闡提(せんだい―教えを聞く耳を持たない者)なられますが、闡提としてこの世に留まるということは阿弥陀経の世界でどういうことを意味するのでしょうか。 阿弥陀経の世界を拒否して、別の生き方を選んだことなのか、闡提としての生き方も阿弥陀経の世界の一つの生き方なのか、そのあたりのことをお教え願えれば有り難いです。 どうぞよろしくお願いいたします。(3月3日)

武田先生からのご返信
西行の言動、を推しはかることが肝要だと思いますが、雨月物語や白峯の文学的な、あるいは音楽的な読み込みは、小生の分には無いようです。
ただ、阿弥陀経は、起承転結の「転」部で、「この経を東西南北上下の六方世界の無数の仏たちが護念する」ことを讃え、 「結」部で「阿弥陀仏の名、及びこの経典の名を聞けば、すべての仏たちに護念され、必ず覚りを得る」とされるので、 少なくとも、経の主旨からは、西行は読経することで、阿弥陀仏と阿弥陀経の功徳にすべてを委ねたのではないかと察せられます。
闡提の往生や成仏は、仏教史上、最も解決が遅れた難題の一つです。 先に触れたように善導(613‐681)の言によって理屈としては解決されていますが、 闡提として輪廻して生きる怨霊は、聞く耳を持たないうちは、救済の対象外です。
原則的には、己の言動を罪として恥じ悔い、教えを聞く時に、初めて救済の門が開かれます。 でも、これはわれわれ人間の予想を超えた事態として、すなわち、すべては阿弥陀仏の計らいとして招来するのだと思います。
観無量寿経に説かれる王舎城の物語、すなわち、「王子が王を殺すという悲劇が王妃の救済の機縁になった」ことのようにです。 西行はそれを願い、阿弥陀仏と阿弥陀経のことを、怨霊となった崇徳院に今一度聞かせたいと願い、 同時に、阿弥陀仏と阿弥陀経に崇徳院をお任せしたかったのかもしれません。
「称(とな)える」と「聞く」という対語は、浄土教のキイワードです。 「私は一人残らず救済する」(無量寿経)というのが阿弥陀仏の誓いなのですから、聞かざる者がいるかぎり、 称える者も未来永劫にわたって存在するはずです。
浄土教的には、「どうか聞いて欲しい、ぜひ知って欲しい、闡提として娑婆を輪廻し続けようと、 阿弥陀の慈悲は飽くことなく降り注ぐ」ということかと愚考しますが、白峯の場合はどうでしょうか……。(3月4日)

御礼
「闡提として娑婆を輪廻し続けようと、阿弥陀の慈悲は飽くことなく降り注ぐ」との先生のお言葉、私のこころを揺さぶりました。 これこそ阿弥陀さんだな、と思いました。私は先生のこのお考えを受け容れたいと思います。ご教示、有り難い事です。感謝したします。(3月4日)

確認
その後、さらに闡提について考えつづけました。
聞く耳を持ちながらも、なおこの世にとどまる闡提のあり方があるのではないか、ということです。 闡提=この世にとどまる社会の変革者、との理解が可能かどうか。
私は、こころは阿弥陀仏に帰依しながら、成仏しないで、末法が終わるまで娑婆にとどまり、この世を一歩でも良くして阿弥陀経に描かれている世の中にしたい、今風のことばでいえば差別と貧困のない、原発に頼らない社会にしたい、とのおもいが強いのですが、このような気持ちは佛の世界ではどのように理解されるのでしょうか。 このような疑問を持ちながら毎日考えつづけました。

とうとう4月3日、インターネットで次の記事を見つけました。
「仏教上では、非道者で仏法を否定、誹謗する者を一闡提(略して闡提)というが、これには単に「成仏し難い者」という意味もあることから、一切の衆生を救う大いなる慈悲の意志で、あえて成仏を取り止めた地蔵菩薩や観音菩薩のような菩薩を「大悲闡提」と称し、通常の闡提とは明確に区別する。」
これこそ、私が考えつづけていた闡提です。
私は大魔縁的闡提でなく、菩薩的闡提があるのではないかと考えつづけ、ついに今日、見つけました。このような菩薩的闡提がいなければ末法を終わらせることができないのではないかと思っていました。
丹波明先生とお話しをし、私なりに考えてみますと、 丹波先生ご自身は、白峯で描かれている崇徳さんの怨霊的闡提ではなく、 音楽の分野で新しい序破急書法を作ってこれまでの音楽を変えていかれる、 どちらかというと菩薩的闡提のイメージかなと思っています。
あたかも親鸞聖人が浄土真宗をひらかれ、今なお私たちのこころに生きつづけておられる菩薩的闡提のように。
このような納得でよろしいでしょうか。今一度ご教示いただければ幸いです。(4月9日)

武田先生からのご返信
大悲闡提に話が及ぶとは想像しておりませんでした。そう感得した方が芸術的ですね。 大西様や丹波先生の、音楽家としての感性に驚きの念を禁じ得ません。
初期の大乗仏教から、その理想は、「自ら覚り、他者も覚りへ導く」という自利利他(じりりた)の実践、 すなわち、自由・平等・平和の実現に向けた活動にあり、その中でも究極の理想を体現した菩薩を 「不住涅槃の菩薩」(ふじゅうねはんのぼさつ)といいます。つまり、「すべての者を覚りに導き入れるまで、 自分ひとりが覚ってしまうことはしない」ということですが、「いつでも覚る準備はできているが、 覚ってしまうと他者の救済活動も終息することになるので、覚ることはできない」という、 未来永劫に救済活動を継続する菩薩のことです。
現在では、この菩薩を代表するのが大悲闡提としての観音菩薩とされてるようですが、 元々は、阿弥陀如来が覚る前の法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)のことを指していたはずなのです。
阿弥陀経に「阿弥陀さんは今現在も説法し続けている」とあるように、阿弥陀さんは、覚って仏になっていながら、 不住涅槃の菩薩の活動を継続しています。それも、「阿弥陀の慈悲は、いかなる姿形にも化して、その務めを果たす」と、 5世紀頃の中国の仏教者である曇鸞(どんらん)などに教証(きょうしょう)されています。
とすると、私や西行の想像を超えて、 「阿弥陀さんが嵩徳院に化して何かをしようとしている」、すなわち、嵩徳院は阿弥陀の化身と受け止めることも十分可能ですし、 観音の化身と呼ぶこともできるでしょう。
そうしてみると、秘められたテーマは未来志向、古典的ながらも新鮮な形態として、聞き手の魂を揺さぶる、 気高く美しい作品になっていくのではと、勝手ながら想像します。
大西様の「私は、こころは阿弥陀仏に帰依しながら、成仏しないで、末法が終わるまで娑婆にとどまり、 この世を一歩でも良くして阿弥陀経に描かれている世の中にしたい、今風のことばでいえば差別と貧困のない、 原発に頼らない社会にしたい、とのおもいが強いのですが、このような気持ちは佛の世界ではどのように理解されるのでしょうか。」 のお考えは、まさしく、不住涅槃の菩薩を指向する堂々たる態度です。
親鸞はもう少し現実的な理想として「自信教人信」(じしんきょうにんしん。自ら信じ、人を教えて信じてもらう)を掲げます。 そして、親鸞は、念のため、こう言っているようにも思います、 「それは一人で背負う必要は無い、信(帰依)を持つ人たち(同朋どうぼう)が、絶えること無く相続していくことになっているから。 心ならずも、力尽きて終わる時が来てしまったら、安心して浄土へ生きなさい。 必要に応じて、阿弥陀さんはあなたの姿を借りて娑婆へ出向くでしょう」と。(4月10日)

御礼
今、帰って参りました。読ませていただいてこころが震えました。 パソコンの画面に向かって何度も手を合わせ、拝ませていただきました。 過分なおことばを頂戴しうれしさこの上ないです。考えつづけた甲斐があったとおもいました。この仕事に取り組んで本当に良かったと思います。 ある境地に私自身歩みはじめるきっかけになったような気がします。先生のお導きのお蔭です。こころより佛のみ心に感謝しています。 ありがとうございました。(4月10日)
( 聞き手 大西信也   写真:日本美術全集 学習研究社)
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「文化人の気魄」  声楽家・木村俊光先生に聞く

1 歌の世界へ
2 海外へ(省略)
3 劇場との契約(省略)
4 後進の育成を
5 オペラの魅力とこれから

(このインタビューは平成23年3月9日に新国立劇場内で行われたものです。 文化庁月報平成23年5月号より転載)
◆歌の世界へ
― オペラの世界に入ることになったきっかけについて教えてください。
 早期教育の桐朋学園には声楽科があり,伊藤武雄先生という方がいらして,という情報をもらいました。 それで東京の伊藤先生のところへアポイントなしで会いに行きました。入学試験を受けてみなさいと。 その結果,何とか無事に合格することができました。   ところが学校に入ったとたんに,先生にお前の声はでたらめなんだから,それを直すには自分で勝手な練習は駄目だ。 先生の前でしか声を出しちゃいかんと言われてしまい,毎日巣鴨の先生のところへレッスンに通いました。  でも,私はせっかく上京したのに自分で練習すらしてはいけないと言われた事で,これはプロの声楽家になるのは無理なんだと考え, では良い教師になるのを目指そうと思いました。そのためには何でも身につけなければと齋藤秀雄先生(当時,桐朋学園大学教授でチェリスト・指揮者) のところへも教えて欲しいと頼みに伺いました。それで高校1年生の夏休みから大学の2年生まで 指揮科の学生と同じように月謝も無しで教えていただきました。

― 声楽の勉強と,週末には指揮の勉強とを両立されていたのですね。
 声楽の方は,入学して一年間先生がいいと言うまで自分で練習してはいけないと言われ,1年の試験なんてさんざんでした。 ところが2年になった途端に,それまでの毎日の地道な喉を開けるという発声の訓練をしたおかげもあって,ポコッと声が変わったんです。  声楽と,指揮との違いを簡単にいうと,歌は言葉にメロディーが付いていて,楽譜を横に見ていくのですが, 指揮は横に見つつ縦にも読まなければいけない。どういう和声で,オケのどういう楽器があって,と縦横に読む。 そういうのを経験しないと指揮は出来ないのです。それで指揮の勉強もできる限り続けようと思っていたら, 大学2年のときにいきなり学校の定期演奏会で指揮を,と話がきて,それが伊藤先生にばれてしまいまして。

― 伊藤先生はそのときはじめて知ったのですか?
君はいったい指揮で行くのか,歌で行くのか,どっちで行くんだと。 先生が眠れずに悩んだという事を奥様から聞きまして,それで定期公演で振るのを泣く泣くあきらめ, 齋藤先生のとこへ辞めさせてくれと言いに行きました。でも,今振り返ってみると,ものすごく良い勉強させてもらいました。 そして私の音楽の下地というか,全部はあの時の積み重ねだと今でも思っています。

― そういうのを積み重ねられて。一つの劇場で16年の契約を続けられたんですね。
 一つの劇場で15年いると終身雇用の権利が得られ,劇場側からクビ切れなくなります。 だいたい12年で,切られる前に他の劇場にうつっていく人が多い。私は10年もてばいいやと思っていました。 そのころ師匠の伊藤先生は自分の後釜に桐朋学園に来て欲しいと思っていたらしく,「いつ帰るんだ」としきりに言われていました。 「まだ契約が残っているので,もうちょっと待ってください」と。一般的な話として終身雇用にしたくないから12年の次は14年で切られるんですよ。だから14年で帰るからあと2年待ってくださいと伝えていました。  ところが15年を越えることが出来まして,これはもう嘘つけないと思って先生にも話しました。 ただ,15年ぴったりで帰るのは悔しかったのでもう1年と思って。 なぜかというと,私をとってくれたインテンダントがちょうど定年で辞めると聞いたので, 彼の元に自ら辞表を持って行きました。そうしたら気分を害して辞めると思ったらしくて理由を尋ねられましたので, 「私はあなたに新人で採用してもらった。あなたが辞めると聞いたが,私も自分のお師匠さんに言われて, いずれ日本に帰らないといけない。だからあなたと同時に辞めたい」と言ったら,「これが侍スピリットか」 と言われまして,お互い固く抱き合いました。

◆後進の育成を

― 劇場との16年の契約を終え,日本に戻られたんですね。
 ええ。42歳で戻りました。普通バリトンって50歳ぐらいまで働き盛りです。 私の気持ちとしては,どうせ帰るのならよぼよぼになったから帰るのではなく,良いときに帰りたいと思ってました。 そうしたら誰かに言われました。馬鹿かって。なんで日本なんか帰ってきたんだって。 でも私は,あのお師匠さんがいなかったら自分はないと思うから,お師匠さんの目の黒いうちに帰りたかった。それだけなんです。

― 日本のオペラ界をどのようにされたいと思い活動されていますか?
 日本では,なんでもかんでもベテランに頼りがちですが,これは光るぞっていう新人を中心にすえて,ベテランが周りを固めるようなことができないかということをよく考えます。  例えば,弦で言うと全員がコンチェルト等のソリストってあり得ないと思っています。 つまり,オーケストラの要員としてイスに座って弾くのが似合うバイオリンニストも教育しないといけないし, 飛び抜けていればソリストとして育って行きますから,その両方をつくらないといけないはずなんです。 オペラ研修所はみんな将来の主役を狙って入ってきます。しかし,主役だけではオペラにならないわけです。 研修所も年2回公演を行い,最終的には私が配役を決めるのですが,「なんで私は主役ではないのですか」と文句が来たりもします。 だけど脇をやってみることも勉強の一つだと話しています。

◆オペラの魅力とこれから

― オペラの魅力とは先生はどう思われていますか。
 興味の無い日本人から見たら,まったくの異文化だと思います。日本のオペラ人口は,せいぜい0.03%程度でしょうか。だいたい全人口1億3千万人としたら年間に新国立劇場へ足を運んで下さるのは,のべ4万人もいない。しかし,そういう文化に携わっているわけですから,事業仕分けでお金をあまりにも減らされてしまうと困ってしまいますが,例えば,今回のオペラ研修所公演はオーケストラだけで60人。皆さんは,舞台にのっかっている人しか考えていないと思いますが,照明や舞台装置を担当するなど舞台を支える人がいっぱいいて成り立っています。これほど総合的な芸術はないと思います。  また,お客様が仮に歌詞を理解できなくてもそれぞれが想像して聴いていただくこともオペラのおもしろさの一つです。 下手なテレビドラマでは,どこかへ出かけていく場面で,電話がきて,身支度して,外へ出て,タクシー止めてって一連の流れをすべて見せる。 だけど,電話がきて,すぐ相手の家のシーンでもいいわけです。どうやって行ったかなんて,見る人が想像すればいい。 タクシーかも知れないし,電車かもしれない。だからオペラもそういう風に想像して観ていただきたいし。 特に初めてオペラを観る人は,喜劇から入ると良いと思います。

― 喜びを感じる瞬間とはどのような時でしょうか?
 私は「その歌い方ではお客さんは一緒に息をしてくれないよ」って言うんです。歌っている人と同じように息をしてもらえなければ,お客さんは感心するだけで共感してくれないと思うのです。一緒になって呼吸してもらう。それが一番大事だと思います。  それとやっぱり「生もの」であること。テレビとかCDとかと生は違う。生でないと味わえないのだから失敗を恐れるなって言っています。 そういう一種のコミュニケーションだと思います。

― これから日本のオペラに望むことはなんでしょうか。
 明治になって西洋音楽が入ってきてからの歴史は長いですが,見方によっては日本の小さな趣味人の固まりに思われなくもない。 日本だけの狭いものにならないようにすること,もうちょっと一般的に普及させること,それからどうしても日本の場合「お勉強」 という捉え方をされがちなので,オペラの楽しさを知ってもらうことが大切だと思っています。  このように立派な劇場をつくって公演していても,それが東京の真ん中から出ていきません。 国内の他にも10〜11か所の多面舞台を持つ劇場があるにもかかわらず,ここだけで終わってしまうというのは残念です。 倉庫も持っていて道具も衣裳もとってあるので,それを地方の多面舞台の所に持って行く,そこまで出来たら良いのですが。 箱(建物)をつくればそれで文化に貢献したみたいだけれど,結局は中身が問題です。 こういうはかなく消えていくモノには,お金をかけないと。それも本当は文化なんだと思いますが。




              
ゆかりの地をたずねて

岡山からJR瀬戸大橋線の快速マリンライナー号高松行き  約40分で坂出駅に到着

      

崇徳マップをクリックしてみてください。崇徳上皇 相関関係図も大変参考になります。

      

鼓岡神社。小さな祠で、タクシーの運転手さんによるとほとんど訪れる人はないそうです。 だけどこの土地の人たちは屋根も葺き替え大事に守っておられる様子がわかりとても印象に残りました。
鼓岡神社から崇徳さんの御陵がある白峰山を望む。

      









御所ができるまでの間、崇徳さんが過ごされた仮住まいの雲井御所の跡です。

      
憧れの崇徳さんの御陵がある白峯寺に着きました。

後白河法皇が亡くなる1年前、崇徳上皇のために建てられた頓証寺殿。人の死とはすべてを洗い流し浄化させるものか。平家物語の灌頂の巻を思い出させる。
奥へ行くと矢印がありました








目的の崇徳さんの御陵に着きました。ここに祀られおられるのかと思うと感慨深いものがありました。高い杉の木が孤独の人をおもいださせました。
白峰宮。1164年10月(崇徳崩御2か月後)、八十場に二条天皇が建てられた崇徳上皇のお宮。
白峰宮扁額。

天皇寺が白峰宮と同じ場所にありました。










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京都
法金剛院、待賢門院さんのお寺をたずねました。

法金剛院、白い彼岸花






法金剛院の庭園は静かな日本庭園で阿弥陀経でイメージされている浄土とは違って  日本人の感性にあった浄土はこういうものかと驚きました。
肖像は待賢門院さん。
(法金剛院発行 写真増田雅与志の絵葉書より)







法金剛院の裏山にある待賢門院さんの御陵








左の地図の説明。
白河上皇にはじまる院政期には、平安京内に置かれた院の御所とともに京外にも大規模な上皇のための御所が造営されました。 白河上皇・鳥羽上皇の時代には鳥羽離宮(南端の茶色の所)や白河殿(右端の茶色上)後白河上皇の時代には法住寺殿(右端の茶色下)が加わった。 (京都創文社・「京都歴史散策マップ」ー鳥羽離宮跡を訪ねて)
白河法皇の御陵







安楽寿院で鳥羽上皇と美福門院の位牌が守られています。

鳥羽離宮のこの地で院政が行われたということである。京都の南のはずれであった。 交通の便は良い。舟で淀川を下り瀬戸内に出られる。これが清盛の福原遷都構想に繋がっていたのではないかと想像した。
安楽寿院は全国に広大な寺領(荘園)を持ち、康治2年(1142年、鳥羽上皇時代)には山城国、讃岐国、尾張国、 河内国、常陸国、上野国、淡路国、豊後国にひろがっていた。(京都創文社・「京都歴史散策マップ」ー鳥羽離宮跡を訪ねて)








本殿
崇徳上皇の肖像



 
(学習研究社、日本美術全集
 第10巻 重文 所蔵・白峯神宮)

神楽殿
ここで今年(2014年9月21日)、崇徳上皇のご命日にオペラが奉納される。
白峯神宮の境内
昔も今もここで蹴鞠がおこなわれる。

白峯神宮の秋の例大祭には源為義公の末裔の方がお酒を供えられている。崇徳上皇との深い繋がりを感じる。 為義公は清和天皇から数えて八代目の子孫になる。下京区朱雀裏畑町の権現寺に祀られている。清和天皇の御陵は京都の左京区の山奥の水尾にあった。  
             源為義公の墓                                清和神社











    











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