中村元 東方研究所・研究員 博士(文学) 武田浩学先生に聞く
質問
お客様にこのオペラを本当に理解してもらうためには当時の時代の思想、阿弥陀経を知っていただきたいと考えました。
平安末期、阿弥陀経は人々にどのように受け入れられたかをお教えいただければ有り難いです。
(2014年3月2日)
武田先生からのご返信
小生は、初期の大乗仏教および浄土教を専門にし、親鸞の浄土真宗の僧籍を有する者ですが、日本の文学や歴史については、
左程、知見を有してはおりません。その点、不足する事もあろうかと存じますが、
「作曲家・丹波明先生が阿弥陀経を前田專學先生(中村元 東方研究所理事長)から教えていただいた」、
また、「大西様はサンスクリットで阿弥陀経をお読みになった」とのこと、その点を前提にして、
阿弥陀経や保元の乱のころについて、以下に、幾つかの基本的情報を、お知らせします。御存知のこともあろうと思いますが、興味を引かれるものがありましたら幸いですし、その他も含め、何かありましたら、お気軽におたずね下さい。
@『保元物語』によると、
崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、
五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、
戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河院は
「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳院は、
舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」
と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。 ただし、
浄土三部経は書写していない。
A
後白河上皇 (1127−1192)(大治2−元久3)。嘉応元(1169)年、出家して覚忠に受戒、法皇となり、
行真と号した。 浄土宗の祖法然上人を招いて、円頓戒(えんどんかい)や、『往生要集』の講説を受けており、
これに感動した法皇は藤原隆信に命じ法然上人の真影を描かせた。 これが知恩院蔵の「隆信の御影」である。
承安2年(1172年)、法住寺殿の南に滋子御願の新御堂が建てられることになり、2月3日に上棟式が行われた(『百錬抄』『玉葉』同日条)。
これに先立つ嘉応2年(1170年)4月19日、後白河院は東大寺で受戒するため奈良に向かう途中、
宇治の
平等院に立ち寄り、本堂で見取り図を閲覧している(『兵範記』同日条)。承安元年(1171年)11月にも滋子を連れて再訪しているので
(『玉葉』11月1日条)、平等院をモデルに造営する計画だったと思われる。
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B
平等院(宇治)は、平安時代後期、天喜元年(1053)に、時の関白藤原頼通によって建立された阿弥陀堂です。
華やかな藤原摂関時代をしのぶことのできるほとんど唯一の遺構として、このうえなく貴重な建築です。
最も大きな特徴は池の中島に建てられていることで、あたかも極楽の宝池に浮かぶ宮殿のように、その美しい姿を水面 に映しています。
堂内の中央には金色の丈六阿弥陀如来坐像が端坐し、周囲の壁および扉には九品来迎図、阿弥陀仏の背後の壁には極楽浄土図が描かれています。
そして左右の壁の上部には52体の雲中供養菩薩像が懸けられています。
当時の人々は鳳凰堂を地上に出現した極楽浄土ととらえていたのです。
C平安時代末期の浄土教。「末法」の到来。
「末法」とは、釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、
「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としている。
本来「末法」は、上記のごとく仏教における時代区分であったが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない
終末論的な思想として捉えられるようになる。よって「末法」は、世界の滅亡と考えられ、
貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、
死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。
末法が到来する永承7(1052年)年に、関白である藤原頼通が京都宇治の平等院に、
平安時代の浄土信仰の象徴のひとつである阿弥陀堂(鳳凰堂)の建立をはじめ、翌天喜元年(1053年)に完成した。
阿弥陀堂は、「浄土三部経」の『仏説観無量寿経』や『仏説阿弥陀経』に説かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、
外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。「極楽が信じられないなら宇治の御堂を敬え」と当時の謡曲でも謡われた。
この頃には阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、定印を結ぶ阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになる。阿弥陀堂からは阿弥陀来迎図も誕生した。
平等院鳳凰堂の他にも数多くの現存する堂宇が知られ、主なものに中尊寺金色堂、法界寺阿弥陀堂、白水阿弥陀堂などがある。
D
阿弥陀経は、起承転結の物語を持つ経典としては、最も短いものの一つで、浄土三部経の中でも読経が容易であり、
特に、鳩摩羅什の漢訳は名文・名調子で、小生の経験では、読経の僧侶および聴衆を「悦に入らせる」あるいは「瞑想の境地に誘う」ほどのものである。現在でも葬送儀礼の際などには、
浄土宗・浄土真宗などの浄土教系のみならず、天台宗・真言宗などの密教系でも当然のように用いられる。
E
阿弥陀経の白眉は、臨終来迎(俗に言う「お迎え」)を説く一段、「もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、
名号を執持する(念仏を称える)こと、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と、現じてその前にましまさん。この人、終わらん時、心顛倒せずして、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得ん」。阿弥陀二十五菩薩来迎図などは仏教美術絵画を代表するものです。
F
もう一つは大宇宙を夢想させる一段「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う」です。
インターネット上の情報にはこうあります。
「十万億土」とは「十万億仏国土」の略で、仏国土の大きさが,
例えば、1BW(Buddha World)とすれば、仏国土が互いに接しているとすると、まっすぐ西に進んで、
十万億の仏国土を過ぎると西方極楽浄土ですから、十万億土は10万億BWという距離になります。
三千大世界が、一仏国土と考えてみましょう。
これは、サバー世界のような世界が千集まり、
そういう世界(小千世界)が千集まって中千世界となり、中千世界が千集まって大千世界となり、
これを三千大世界と呼ぶのです。三千大世界を、かつては釈迦仏陀がいたのですから、
直径100天文単位の太陽系だとすると、これを一仏国土とすると、十万億BWは、1000万億天文単位となります。
これは、光年に換算すると、約160億光年になります。大体、宇宙の直径です。これは、光で進むと、
160億年かかる距離で、とても49日で行ける距離ではありません。
以上を整理しますと、例えば、次のようになるでしょう。
平安時代末期、末法の到来を裏付けるかのように、災害や戦乱が頻発し、文化は退廃し、秩序は乱れ、社会は不安と動乱の渦中にあった。人生の無常、人間の愚かさ・罪深さに絶望した人々は、皇族・貴族から庶民に至るまで、身分の上下も敵味方の区別も無く、大宇宙の彼方にあるという、阿弥陀仏の荘厳な極楽浄土へ生まれ行くことをひたすら求めた。
極楽浄土には「天女が奏でる妙なる調べに満ち、天空には美しき花々が舞い、六種の珍鳥がさえずりを聴かせている」という。
そして、極楽浄土を説く三つの経典の中でも、最も簡潔で流麗な阿弥陀経は、「命を終える者の枕元に阿弥陀仏が麗しくも厳かに迎えに来る」という、ドラマチックな来迎を説く一段を有することで、今なお読み継がれ、我々日本人の心に、無意識の裡にも、大いなる安息を約束している。
以上です。
追伸
オペラ白峯期待しております。
また、「闡提であろうと心を翻せば(回心すれば)極楽浄土に往生できる」というのは、法然の師、善導の有名な文言です。
ところで、引声阿弥陀経会はごぞんじでしょうか。小生は残念ながら聴いたことが無いのですが。
阿弥陀経を独特の調子で鉦に合わせて唱えます。慈覚大師円仁が渡唐した際、五台山において生身の文殊菩薩から、
極楽世界八功徳池の波の音に唱和する「引声阿弥陀経」(いんぜいあみだきょう)を伝授されたというものです。
お経の一節を長く引いて唱える「声明」の一種で、現在は真如堂(京都市左京区浄土寺真如町82)だけに残される珍しいもの。
(3月3日)
再質問
「お気軽におたずね下さい」のお言葉に甘えさせていただきまして、一つお教え願いたいことがございます。
崇徳上皇は闡提(せんだい―教えを聞く耳を持たない者)なられますが、闡提としてこの世に留まるということは阿弥陀経の世界でどういうことを意味するのでしょうか。
阿弥陀経の世界を拒否して、別の生き方を選んだことなのか、闡提としての生き方も阿弥陀経の世界の一つの生き方なのか、そのあたりのことをお教え願えれば有り難いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
(3月3日)
武田先生からのご返信
西行の言動、を推しはかることが肝要だと思いますが、雨月物語や白峯の文学的な、あるいは音楽的な読み込みは、小生の分には無いようです。
ただ、阿弥陀経は、起承転結の「転」部で、「この経を東西南北上下の六方世界の無数の仏たちが護念する」ことを讃え、
「結」部で「阿弥陀仏の名、及びこの経典の名を聞けば、すべての仏たちに護念され、必ず覚りを得る」とされるので、
少なくとも、経の主旨からは、西行は読経することで、阿弥陀仏と阿弥陀経の功徳にすべてを委ねたのではないかと察せられます。
闡提の往生や成仏は、仏教史上、最も解決が遅れた難題の一つです。
先に触れたように善導(613‐681)の言によって理屈としては解決されていますが、
闡提として輪廻して生きる怨霊は、聞く耳を持たないうちは、救済の対象外です。
原則的には、己の言動を罪として恥じ悔い、教えを聞く時に、初めて救済の門が開かれます。
でも、これはわれわれ人間の予想を超えた事態として、すなわち、すべては阿弥陀仏の計らいとして招来するのだと思います。
観無量寿経に説かれる王舎城の物語、すなわち、「王子が王を殺すという悲劇が王妃の救済の機縁になった」ことのようにです。
西行はそれを願い、阿弥陀仏と阿弥陀経のことを、怨霊となった崇徳院に今一度聞かせたいと願い、
同時に、阿弥陀仏と阿弥陀経に崇徳院をお任せしたかったのかもしれません。
「称(とな)える」と「聞く」という対語は、浄土教のキイワードです。
「私は一人残らず救済する」(無量寿経)というのが阿弥陀仏の誓いなのですから、聞かざる者がいるかぎり、
称える者も未来永劫にわたって存在するはずです。
浄土教的には、「どうか聞いて欲しい、ぜひ知って欲しい、闡提として娑婆を輪廻し続けようと、
阿弥陀の慈悲は飽くことなく降り注ぐ」ということかと愚考しますが、白峯の場合はどうでしょうか……。
(3月4日)
御礼
「闡提として娑婆を輪廻し続けようと、阿弥陀の慈悲は飽くことなく降り注ぐ」との先生のお言葉、私のこころを揺さぶりました。
これこそ阿弥陀さんだな、と思いました。私は先生のこのお考えを受け容れたいと思います。ご教示、有り難い事です。感謝したします。
(3月4日)
確認
その後、さらに闡提について考えつづけました。
聞く耳を持ちながらも、なおこの世にとどまる闡提のあり方があるのではないか、ということです。
闡提=この世にとどまる社会の変革者、との理解が可能かどうか。
私は、こころは阿弥陀仏に帰依しながら、成仏しないで、末法が終わるまで娑婆にとどまり、この世を一歩でも良くして阿弥陀経に描かれている世の中にしたい、今風のことばでいえば差別と貧困のない、原発に頼らない社会にしたい、とのおもいが強いのですが、このような気持ちは佛の世界ではどのように理解されるのでしょうか。
このような疑問を持ちながら毎日考えつづけました。
とうとう4月3日、インターネットで次の記事を見つけました。
「仏教上では、非道者で仏法を否定、誹謗する者を一闡提(略して闡提)というが、これには単に「成仏し難い者」という意味もあることから、一切の衆生を救う大いなる慈悲の意志で、あえて成仏を取り止めた地蔵菩薩や観音菩薩のような菩薩を「大悲闡提」と称し、通常の闡提とは明確に区別する。」
これこそ、私が考えつづけていた闡提です。
私は大魔縁的闡提でなく、菩薩的闡提があるのではないかと考えつづけ、ついに今日、見つけました。このような菩薩的闡提がいなければ末法を終わらせることができないのではないかと思っていました。
丹波明先生とお話しをし、私なりに考えてみますと、
丹波先生ご自身は、白峯で描かれている崇徳さんの怨霊的闡提ではなく、
音楽の分野で新しい序破急書法を作ってこれまでの音楽を変えていかれる、
どちらかというと菩薩的闡提のイメージかなと思っています。
あたかも親鸞聖人が浄土真宗をひらかれ、今なお私たちのこころに生きつづけておられる菩薩的闡提のように。
このような納得でよろしいでしょうか。今一度ご教示いただければ幸いです。
(4月9日)
武田先生からのご返信
大悲闡提に話が及ぶとは想像しておりませんでした。そう感得した方が芸術的ですね。
大西様や丹波先生の、音楽家としての感性に驚きの念を禁じ得ません。
初期の大乗仏教から、その理想は、「自ら覚り、他者も覚りへ導く」という自利利他(じりりた)の実践、
すなわち、自由・平等・平和の実現に向けた活動にあり、その中でも究極の理想を体現した菩薩を
「不住涅槃の菩薩」(ふじゅうねはんのぼさつ)といいます。つまり、「すべての者を覚りに導き入れるまで、
自分ひとりが覚ってしまうことはしない」ということですが、「いつでも覚る準備はできているが、
覚ってしまうと他者の救済活動も終息することになるので、覚ることはできない」という、
未来永劫に救済活動を継続する菩薩のことです。
現在では、この菩薩を代表するのが大悲闡提としての観音菩薩とされてるようですが、
元々は、阿弥陀如来が覚る前の法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)のことを指していたはずなのです。
阿弥陀経に「阿弥陀さんは今現在も説法し続けている」とあるように、阿弥陀さんは、覚って仏になっていながら、
不住涅槃の菩薩の活動を継続しています。それも、「阿弥陀の慈悲は、いかなる姿形にも化して、その務めを果たす」と、
5世紀頃の中国の仏教者である曇鸞(どんらん)などに教証(きょうしょう)されています。
とすると、私や西行の想像を超えて、
「阿弥陀さんが嵩徳院に化して何かをしようとしている」、すなわち、嵩徳院は阿弥陀の化身と受け止めることも十分可能ですし、
観音の化身と呼ぶこともできるでしょう。
そうしてみると、秘められたテーマは未来志向、古典的ながらも新鮮な形態として、聞き手の魂を揺さぶる、
気高く美しい作品になっていくのではと、勝手ながら想像します。
大西様の「私は、こころは阿弥陀仏に帰依しながら、成仏しないで、末法が終わるまで娑婆にとどまり、
この世を一歩でも良くして阿弥陀経に描かれている世の中にしたい、今風のことばでいえば差別と貧困のない、
原発に頼らない社会にしたい、とのおもいが強いのですが、このような気持ちは佛の世界ではどのように理解されるのでしょうか。」
のお考えは、まさしく、不住涅槃の菩薩を指向する堂々たる態度です。
親鸞はもう少し現実的な理想として「自信教人信」(じしんきょうにんしん。自ら信じ、人を教えて信じてもらう)を掲げます。
そして、親鸞は、念のため、こう言っているようにも思います、
「それは一人で背負う必要は無い、信(帰依)を持つ人たち(同朋どうぼう)が、絶えること無く相続していくことになっているから。
心ならずも、力尽きて終わる時が来てしまったら、安心して浄土へ生きなさい。
必要に応じて、阿弥陀さんはあなたの姿を借りて娑婆へ出向くでしょう」と。
(4月10日)
御礼
今、帰って参りました。読ませていただいてこころが震えました。
パソコンの画面に向かって何度も手を合わせ、拝ませていただきました。
過分なおことばを頂戴しうれしさこの上ないです。考えつづけた甲斐があったとおもいました。この仕事に取り組んで本当に良かったと思います。
ある境地に私自身歩みはじめるきっかけになったような気がします。先生のお導きのお蔭です。こころより佛のみ心に感謝しています。
ありがとうございました。
(4月10日)
( 聞き手 大西信也 写真:日本美術全集 学習研究社)
「親鸞 教行信証」武田浩学のメモを記録すること。(2023.1.30)
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