◆紹介
小沼:今日は作曲家の丹波明さんをお迎えして、おはなしをうかがいます。
丹波明さんはフランスと日本を行き来するなか、作曲活動はもとより、日本の伝統音楽、特に能の研究者として知られています。
フランスで日本の音楽を学ぼうとおもったときに、丹波さんのいくつかの本------
『La structure musicale du no: Theatre traditionnel japonais(能の音楽的構造)』(Klincksieck 1974)、
『Musiques traditionelles du Japon. Des origines au XVIeme siecle(日本の伝統音楽 始源から16世紀へ)』
(Cite de la Musique/Actes Sud, 1995)、『La Musique classique du Japon : Du XVe siecle a nos jours
(日本の古典音楽 15 世紀から現在まで)』(POF, 2001))------は欠かすことのできないものです。
また、この列島においては、1972年に刊行された『創意と創造』(音楽之友社)があり、
ここではオリヴィエ・メシアンからピエール・シェフェール、アンリ・デュティユー、そしてピエール・ブーレーズ、
ジルベール・アミ、リュック・フェラーリといったフランスの作曲家たちとの対話を中心に、
タイトルに掲げられた音楽を創造することについて記されています。近年では、2004年の『「序破急」という美学』
(音楽之友社)を忘れることはできません。
◆フランスの影響、その有/無
小沼:丹波さんはフランスのパリを拠点とされていらっしゃいます。
しかし同時に、日本からヨーロッパにむけ、いわば外からの視線をおもちです。
ヨーロッパにいらっしゃるなかで、芸術音楽というものの位置づけ、意味、そして日本との違いをお伺いできればと思っています。
わたしたちは芸術音楽と言う時に、例えば「クラシック音楽」ということをいいます。しかし、20世紀から21世紀にかけ、芸術音楽が多くの人たちから遠くなってきてしまった。
あまり聴かれなくなっている。そうした状況があります。それはこの極東の列島にいるからなのか、それともそれだけではないのか、わたしはずっと気にしています。
そもそも芸術音楽はヨーロッパから生まれているわけで、当然、極東とは違いがあるだろう。そのうえで、実際に作曲という行為で芸術音楽の現場に携わっておられる丹波さんのお考え、
感触をうかがわせていただきたいのです。
小沼教授と
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丹波:今おっしゃった問題については、他の問題がいろいろ派生してくるんですね。それで僕が日本人でありながらフランスにいて、
どうして日本ではなしにフランス・パリで、
作曲を続けているか、ということをお話したほうがいいかと思います。
僕が留学する頃までは、日本の人がヨーロッパに行って学ぶ、という態度だったわけです。もちろんいつでもどの国からも学べるんですけども。フランスに行ったのは1960年です。
ですから既に50年以上前になりますけれど、その当時は日本も敗戦後でしたし、その15年後で、まだ日本の”円”がお金として通用していなかった。あらゆるお金をアメリカのドルに換えて、
それを送るようにするなどしていた時代ですから、まだ洋楽に対する考え方もかなり踏襲的な、伝統的な留学の態度を取っていました。
どうして僕がフランスに行くようになったかと言いますと、作曲の先生が池内(友次郎)さんだったのです。池内さんは、
戦前、フランスの音楽学校、コンセルヴァトワールに留学し、
そこで学んだ方です。日本に帰って来て、敗戦を味わい、その後あらためてフランスに旅行なさった。
そのときは東京芸術大学の先生でしたから、一週間ぐらいパリに行かれて、すぐ戻られた。
そのときにフランスのコンセルヴァトワールに日本の学生を受け入れる、というような話し合いをしてなさったわけです。
フランスはといえば、日本に対する戦勝国だったので、
勝った国として日本を援助する、という意味合いで給費留学生を出してくれていました。そして給費留学生の試験を受けてみろ、
というから受けてみたところ、通っちゃったんです(笑)。
僕はアメリカに行くことになっていたんですけども、それを急遽やめ、フランスに行くことになりました。ですから急にフランス語を勉強し始めたのです。
ちょうど住んでいる横浜にフランスの領事館があって、そこにアリアンス・フランセーズというのがあったんですね。そこでフランス語を教えていたので通いまして、
英語をいきなりフランス語に替え、フランスに行った。
で、僕は「フランスで何を学びましたか」とかよく聞かれるんですけど、答えるのに困っちゃうんですよ。
「(オリヴィエ・)メシアンには何を学びましたか」とか
「(クロード・)ドビュッシーにはどういう影響を受けましたか」とかって聞かれるんですけど。
というのは、僕はフランスからひとつも影響を受けていないんです(笑)。
というと嘘にもなるんですが……すべてフランスから影響を受けたんですけども、実際には何も受けていない、
そんな言い方をしたほうがいいですね。そういう何か矛盾があるわけです。
どういうことか、ということをご説明しましょう。メシアンが僕に教えてくれたことで、
音楽の技術的なことというのはひとつもなかったんです。彼のクラスにいてもね。
メシアンのクラスというのは作曲ではないんです。作曲を彼は教えていなかった。美学を教えていました。
それで作曲のクラスに行ったって、東京芸大を卒業していけば、
ほとんどトップで賞を獲れますし。そういう技術的な意味ではほとんど学ぶことはなかったわけです。
僕がどうしてメシアンからあらゆるものを学び、そして学ばなかったのか。
メシアンが僕に教えてくれたことで日本では絶対に学べないことがたったひとつあるんです。
それがすべてだった。それは、他人から教えられたことで作曲しちゃだめだ、ということです。自分の書法を作りなさい、ということなんです。それを学んだわけです。それで、
メシアンはどういう風に自分の書法を作っていくか、ということを教えてくれた人です。
技術的に、例えば、ピアニストだったら、ベートーヴェンのソナタのこういうところはこういう指使いで弾きなさい、とかそういうことを学ぶ。だけど、
そういうことは日本の音楽的なレヴェルが上がっていたから、もちろん学ぶことが出来ることも一杯あるにはあるのですが、そういう意味では、ほとんど学ぶことがなかった。
そういうふうに、つまりメシアンが言ったように、作曲は自分の書法を作るところから始めなさい、と教えてくれた人は日本にはいない。
メシアンは三つの過程をとおりなさい、と教えてくれました。まず自分の書法を作る前にあるものを勉強しなさい。
現代の作曲家というのはあらゆる意味で音楽学者じゃないといけない、と。昔のようにあたまを掻きながら、悩んで作曲しているようじゃだめだ、
ベートーヴェンの時代はもう終わったんだ、とはっきり言うんですね。はっきりと自分の書き方を作るところから始めなさい、そのためには過去にあった音楽形式を勉強しなさい、
そのために作曲家は音楽学者であらねばならない、とはっきり言うんです。
そして過去のものを勉強するにあたって、まず、第一に分析しなさい。分析の後には分類しなさい。分類した後には、分類したものから原則を引き出しなさい。
その三つの過程を通って自分の書法と融合しなさい、と。
それはヨーロッパの手法がものすごく個人化してきてしまったからなんです。さっき芸術音楽がなくなったとおっしゃっていたけれど、そこに理由があるんです。
個人的になりすぎて、いわゆる芸術と言うジャンルの音楽がなくなってきてしまったんですね。それで個人の書法、個の表現というようになり、共通の語法がなくなってきてしまったわけです。
そういう意味で芸術音楽がなくなってきてしまっている。そして個の語法というのは今の、現代の語法であり、
分類した語法と言うのは過去の伝統的なものなんです。
僕は何を融合すべきか、日本人でありながらヨーロッパ音楽のなかで何をどういう風に生きていくべきか、ということを考えたんです。それはつまり、
ヨーロッパと日本というものを融合するということになります。
そうして僕は、ヨーロッパ音楽と自分に一番身近な日本の音楽を融合するということを考えだしたわけです。
日本の文化というのは何も僕がはじめて融合を考えたわけではないんです。大昔から日本の文化というのは融合をしてきていて、サンクレティック(syncretique)な文化だから。
サンクレティスムというのは混合というか、混ぜ合わせる文化なんです。それはひじょうに違う創造観なんだけども、折衷文化が必ずしも悪いということはないと思うんです。
例えば平安以前の奈良時代の文化もみんなそうだし、中国大陸からきた文化と日本の土俗の文化とが一緒になって少しずつ出来てきている。仏教にしろ、
日本の仏教というのはインド・中国の仏教と違って、日本の神道と結びついて出来ている仏教です。
そういう意味でずっと日本の文化のあり方そのものがそういう風に出来ているわけです。
日本の土俗のものとアジア大陸であった中国とが、特に、1900年代になると日本の土俗と今度はヨーロッパのずっと西の方の大陸の文化が入るようになってきたわけです。
そういう風に混ぜ合わせる文化というものはひじょうに違うのだけれど、混合してできる、サンクレティックな文化というのを日本は築きあげてきているわけです。
その文化というのは、例えば明治初めの1872年に伊沢修二さんという第一回目の今の芸大の、東京音楽学校の学長。その人がヨーロッパ・アメリカにどの音楽を採りに行くべきか、
というのを二年くらい回って帰って来た。その時に折衷という問題をものすごく考えていたんです。それを考えると日本の伝統音楽とヨーロッパの音楽の折衷ということは、
日本の文化の本質なんです。
小沼::昔から大陸と日本があり、19世紀後半になれば西洋と日本となる。加藤周一さんがまさに雑種文化という言い方をされいらっしゃったことを想いおこします。
音楽において、明治期に西洋音楽を学び、まさに折衷した音階が生まれ、それによって多くの作品が生まれました。童謡などもそうしたなかにあるでしょう。しかし、
第二次世界大戦が終わると、どっと西洋的な音組織が前景化してしまいます。そして、今、若い人たちは伝統的な音楽を知らなかったりするし、感覚的にも馴染みがない、
ということが起こってきてしまっています。この列島には昔から長調と短調の音楽があると思っていたりするわけで、なかなかに難しい……。
◆創造について? つくる・なる
丹波:ちょっと本質的な問題で話しておいた方が良いと思うことがあるんです。それは創造観の問題なんですね。
創造観というのは、僕がさっきメシアンには何も習わなかったけどすべて習ったというようなことを言いましたが、それは創造観の問題なんですね。
日本の創造観とヨーロッパの創造観は全く逆なんです。それはつい最近の、昨日の問題じゃなくて紀元前600年前とかからずっと
続いている創造観の違いなんです。
どういうところに表れているかというと、聖書があります、旧約聖書。そのなかに天地創造がある。
どういう風に宇宙が創られたという。そのときに、
聖書では神が第一日目に光を創ったというんです。
この「三つ」がヨーロッパでははっきりしているんです。「神が」「光を」「創った」という関係が。
そして動詞としては「創る」という言葉をはっきり使っています。
ところが日本の7世紀に書かれた日本書紀ではそういう「創る」という言葉は出てこないんです。
じゃあ、どういう言葉が使われているかというと「成る」という言葉が使われている。神様という風な創造者もない。神がひとりでに成った、ということで、
神様もひとりでに成っちゃうわけ。何か自然の中に大きな力があって、その力のことを「むすび」というんですね。そしてその力が神を成らせた、ということです。
だから創る人はいないんですよ。そこが創造観の一番の違いです。
それで、日本の神様はひとりでに10柱(とはしら)、神様を柱(はしら)と勘定するわけですけども、10柱までの神様は全部ひとりでに成る。
そしてその後に初めてイザナギとイザナミという男と女の神が出来てきて。その前の10柱の神様というのは全部中性なんですね。男でも女でもない神様なの。
子孫を残さないで死んでいくわけです。イザナギとイザナミが成ってから、男女の交接によって子孫が生まれるようになる。
そしてイザナギとイザナミが「国生み」ということで、いろんな日本の国を作っていく。まず四国を創ったり、本州を創って、厳島を創ったり、といろんなところを創っていくわけです。
そういうことで日本の場合は産むとかいう言葉を使っているわけ。
それに対してヨーロッパでは今でも「ベートーヴェンが何年にピアノ・ソナタ第何番を創った、創造した」ということで出来ているわけです。
これがいまだにヨーロッパの創造観なんです。我々は明治以降、ヨーロッパ音楽の作曲法を取り入れることによって「丹波明が何年にピアノ・コンチェルトを作曲した」
という風になるわけですよね。そういう風な作曲の勉強を習ってきたわけ。
すると法律的な、著作権だとか言う問題が出てくるわけですよ。
ところが実際の感覚としては日本人の作曲家というのは「成る」という感覚で作っている。
前から教わったテクニックで持って曲を「成らせる」わけで、創るという意識がないんです。
そこがひじょうに違うということを僕はメシアンから習った。
ヨーロッパの音楽の歴史には「成る」という感覚はひとつもなくて、全部「創る」という意識で成り立っています。
小沼:例えば芸大で作曲を学んでいても、誰々風、何々風に作るとかということになりますね。
丹波:まさにそうです。流派みたいなものがあって、ドイツ流にとか、フランス流にとか。そういうことはヨーロッパにもあるんですけどね。
伝統主義者というか、伝統的に作るというのは。
ものすごく伝統主義を主張した人としてはセザール・フランクだとか、ヴァンサン・ダンディだとか、そういう人は伝統主義者だからドビュッシーをいじめたわけです。
ドビュッシーはおもしろいことを言っています。この作曲家は本当の意味で(リヒャルト・)ヴァーグナーの信奉者だった。それがどういう風に表れてきているかというと、
バイロイト音楽祭に二回も行っているし、《トリスタンとイゾルデ》を観に、ヴィーンまで行っている。今だったら飛行機に乗ればいいけど、
当時はパリから何十日もかかって行くわけですから。そのくらい情熱的なヴァーグナーの信奉者だった。そういう人が、ヴァーグナーの後には何があるべきかを考えなさい、
と言っている。ヴァーグナーの後には何があるべきを考えて、ワーグナー主義のひとりになることは考えなさんな、とはっきり言っているんですね。
それ、僕はすごいことだと思う。
ヴァーグナーを踏襲して、どのようなものを作ればよいか、
ということでドビュッシーは《ペレアスとメリザンド》を作っているわけです。
そういう風な言い方がふたつの創造観の違いをよくあらわしていると思うんです。ヨーロッパの音楽史というのは全て続いているように思えるけど、
そうじゃない。みんな自分の言いたいことをどんどんつけ加え、新しくしようという意識をもってきたんです。それが音楽史として残っているわけで、
何も真似て続けてきたものはひとつもないんです。
家元から流派で持って繋いできたものはひとつもない、ということを学んでいただきたいと思います。
小沼:画家のギュスターヴ・クールベがアヴァンギャルド、前衛という言い方をしたようですが、
そうした意識はずっと持続されてきたと言えるのではないでしょうか。ところで、メシアンには、
いわゆるヨーロッパ外の地域からの学生もいたと思うのですが、
異なった文化を背負った人と出会われるなか、丹波さんはどういう風なことを考えられたのでしょう。
丹波:僕が出会った異国の人はヴェトナムの人が多かったです。ヴェトナムが当時フランスの植民地だったということもあったし、
1962-3年はヴェトナムから戦争を逃れてきた人がたくさんいました。それから東欧の共産圏の人もだんだんと流れてきていました。でもひとつの目的は音楽をする、
ということだったから、みんなそれでもって統一されていたと思います。
小沼:例えばヴェトナムの作曲家たちはヴェトナム的なものを西洋的なもののなかに融合させる、そういうことをそばでご覧になっていたのかどうか……。
丹波:そういうことはあると思いますね。自分の国のものを融合させたいという意思はあるんじゃないかな。
◆決定音楽/非決定音楽
丹波:ここで今度は音楽的な問題にはいってみたいと思います。
ヨーロッパ音楽と他の国の音楽を融合するということの音楽的な意味についてです。
具体的に言うと、ヨーロッパの音楽は「決定音楽」なんです。そして非ヨーロッパ音楽というのは「非決定音楽」なんです。
一概にそうくくれるわけではないけれど、
こうした差があるということです。
決定音楽というのはあらゆる要素が作曲する前に決定されているということ、音が十二音階によって、平均律にあわせてあるんです。
バッハがフーガを書いて平均律を広めた。平均律のルーツはフランスのラモーだとかにあったわけですけれども。
平均律によって音の高さが全部決まっている。
それからリズムが13世紀にカッチリきめられたわけです。時計に歯車が初めて入ってそういう感覚が出てきた。
そして初めて時間が物差しによってはかられるようになった。
そういう風な感覚を創ったのをアルス・ノーヴァというんです。
それ以前は長短、長短という風なリズムでやっていました。
決定音楽というのはそういう風にあらゆる要素が決定されている音楽です。
それに対し非決定音楽はそのようなことを知らなかった音楽です。
でも、非決定音楽は全くのでたらめということではない。非決定音楽も少しは ずれが出るけども、
丹波明『能音楽の構造』
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ずれを包含した決定性があるわけです。
それが能に使われている。
そういうことを僕が逆にメシアンに教えた。で、そういう風な研究をさせてくれたのがフランスという国なんです。
僕はC.N.R.S.(Centre national de la recherche scientifique)という国の機関でしごとをしていました。訳すとフランス国立科学研究所となります。
そこが、僕に日本の音楽を研究するならば、フランスの公務員として雇ってくれると言ったんですね。
小沼:もともと能についてはお詳しかったのでしょうか。
丹波:そんなに詳しくなかったけれども、芸大には既に能楽科があったし、音はしょっちゅう聴いてましたね。
小沼:そういう風なものを西洋的な視点でみていったらどうなるか、ということをやられた、と。
丹波:そうなんです。ものすごく難しかった。
要するに能というのは非決定音楽なんですね。それを決定音楽の人にどういう風に知らせるか、ということです、だから僕はしょっちゅうメシアンと議論していました。
例えばメシアンは鼓をうつ前のかけ声の音程を書かなくちゃいけない、という。
でもかけ声に音程を書いたら意味がない。
かけ声というのは悲しい場面には同じかけ声でも悲しくかけなくちゃいけない。楽しい場面では楽しく。そういう心理的な音素材なの。
そういう音素材というのはヨーロッパ音楽にはないんですよ。
悲しいドという音は出しようがないんだから。
小沼:丹波さんの〈タタター(TATHATA)〉にはかけ声が入っていますね。
丹波:この曲は弦楽四重奏のための作品です。TATHATAは漢字で書くと「如」、サンスクリット語です。
「真如」ということを言う人もいますけども。現実そのものだ、ということ。これは1968年に書いた曲です。
この年はフランスでパリ五月革命がおこってあらゆるものが変わった年でした。音楽院は全部占領されて、伝統的な先生たちは全部追い出されてしまった。
占領されたあらゆる教室には浮浪者が入ってきて。そういう風に全く機能が停止しちゃったわけです。以前から、伝統という形式、
音楽観を変えなくちゃ、ということが言われてはいました。でも、ある種の惰性でもって、1968年まで続いてきたのです。それが、
1968年に学生が、自分たちの習ってきたことに全く意味がない、とわかりだす。そういうものと社会でやることの差があまりにもありすぎて、
それがもう我慢できなくて、ストライキに入っちゃった。そうすると労働組合がそれに参加し、フランスは五月革命という社会状態になったわけです。
音楽も例外じゃなかったわけで、どういう風な新しい音楽を創らなきゃいけないか、ということが作曲家に課されたわけです。
そういうときに僕が書いた曲が〈タタター〉です。この曲には伝統的な教育のなかでこれは使っちゃいけない、と言われたことを全部使っているんです。
だからあらゆるやっちゃいけないことのなかでも曲が出来るんだということで、逆の意味で使ってみました。そのなかでかけ声だとかを使っているわけです。
ヨーロッパの弦楽四重奏のなかで声を出すなんてこと、ましてやヴァイオリニストが声をだすなんて一切なかった。
この曲に関しておもしろいエピソードがあるんですよ。初めてこの曲を録音してくれた弦楽四重奏団の話でね。
もともとフランスの放送局の注文として書いた曲なんですけれど、学生騒動が起きる前に書きました。それで当然フランスの放送局のスタジオで録音したわけですが、
その人たちが突然、休憩をとりたいと言うから、いいでしょう、となった。すると第一ヴァイオリンの人が音楽部まで行って、
超過料金を請求したんです。どうしてかというと「私たちは弦楽四重奏を担当する弦楽四重奏者で、声を出す歌い手じゃない」というんですね。
声が入ってるから超過料金を出すべきだ、というんです。そうしたらそれが通っちゃったの(笑)。
意気揚々として帰ってきて超過料金が出た、というんですね(笑)。
そういう時代だったんです。ですから弦楽四重奏者に声を出させるということは今では当たり前だけど、この頃はありえなかった。
いまは逆にみんなが使うから僕が使えなくなっちゃった。他人の真似するのはいやだから。
あと、ヴェトナムの人たちとか異なった国の人たちが、という話がさっきあったけども、この人たちは「非決定音楽」と対決はしてないんです。
要するにヨーロッパの伝統的な「決定音楽」のなかで作品を書いた、というようなことだと思います。
小沼:たとえば日本の方々だと、どちらかといえば、帰国されると、アカデミシャンとなってしまった……。
丹波:そうですね。結局そうなっちゃうんですね。
小沼:それにしても、パリにいらっしゃって「非決定音楽」を、日本の伝統音楽を研究するのは、資料もないし、
なかなか現実の演奏も聴くこともできないし、困難だったのではないでしょうか。
丹波:難しかったです。だけども芸大の時の友だちがずいぶんいましたからね。そういう人たちに手紙を書いては情報をもらいました。
それから非決定音楽という問題に関係してくるのが、ミュジック・コンクレート(musique concrete具体音楽)です。その辺はどうお考えになる?
小沼:初期のピエール・シェフェールやピエール・アンリがやっていたのは楽音と非楽音の区別をなくすということだったと思っています。
それは録音するメディアというものが発達し、生まれたものでしょう。INA-GRMのCDのボックスがありますね。丹波さんの作品も収録されています。ごく初期の、
とてもプリミティヴなミュジック・コンクレート、文字どおり、具体的な、現実音を使ってという作品から、電子音響に変化して80年代くらいまで推移するさまがよくわかっておもしろい。
そうしてまとめられたものを聴いてから、あらためて初期の作品に戻ってみると、どうしても具体音というのは、しばしば変形はされていても、
何の音かわかってしまう、イメージできてしまったりするものがあったりするわけです。そうしたところで、演劇的というか、ラジオ・ドラマのように聞こえてしまう、
というところがあるように思うのです。
丹波:音と生活が結びついてしまうんですね。GRM (Groupe de Recherches Musicales)というのは僕たちが作ったんですけど、
僕は1964年くらいから3年か4年いました。リュック・フェラーリとかと同時期です。リュックはすごくいいやつでね。あんなに良いフランス人は珍しい(笑)。
ただリュック・フェラーリはコンセルヴァトワールを出てないんですよ。だからすごく良い(笑)。アカデミスムをうちこまれなかったから。
それで僕がどうして数年でGRMをやめてC.N.R.Sに入ったか、という理由なんですけども、僕がここで提唱したことは、いろんな録音した音素材を勝手に使っても意味がない、
ということだったんです。それこそ生活のことをレミニッサンス、思いださせてしまうということがあるから。それがないほうが良いと言った。
そのためには細胞(cellure)というものをつくった方が良いというようなことを言ったわけです。
聴講者
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細胞というのは、具体音を一杯重ねて細胞をつくる、ということなんですが、こういうものを30くらいつくっておいて、最小構造を積み重ねることで、
映画のモンタージュのように最大構造をつくっていくというものです。それを提唱したら総スカンにあっちゃった(笑)。どうしてかというと、
当時はあらゆる構造的な意識を否定していたからなんですよ。その時に僕が新しい構造のシステムを提案したもんだから。そういうものをなしに作ろうとしていた、
というのが60年代だったんです。
どうして僕がそれを提案できたか、というと、それは能の音楽を研究していたからなんですね。というのは、
先のはなしとつながってくるのですが、こうした決定音楽というのは、日本に既にあるんです。
決定音楽というのは雅楽で、非決定音楽というのが能なの。雅楽は8世紀で、能は13世紀。
ヨーロッパのクラシック音楽だと18世紀から20世紀に雅楽から能への変化が当たるわけです。
18世紀から出てきたクラシック音楽が20世紀になると非決定音楽に近づいてくる。
というのは芸術音楽がなくなってきたということです。
芸術音楽がなくなってきたときに初めて20世紀になってきたわけです。それはメシアンがしょっちゅう言っていることなんです。
「だからおまえさんたちはヨーロッパ以外の音楽を研究しなくちゃいけない。そして非決定音楽がどのような構造でできているかを調べて、それを分類し、
そこから原則を引き出しておきなさい。そしてそれを現代のものと折衷して、自分の書法を作りなさい」ということを言うわけ。
◆《白峯》
小沼:ここで9月に初演される《白峯》について、話題を移してみようとおもいます。
このオペラ、ご自身では「楽劇」とおっしゃっているのかもしれませんけれども、もともとどういうきっかけで生まれることになったのでしょうか。
丹波:もともと僕は三部作のオペラを書いてみたかったわけです。それはキリスト教によるオペラと、仏教によるオペラと、
それからイスラーム教によるオペラと。その3つに関連したオペラを書いてみたかった。仏教やキリスト教といった宗教そのものに興味があるわけじゃないんですけれども、
その宗教がどのように人間の生活に関係してきているのか、という関係の問題に興味があるんです。ですから仏教と神道が日本では神仏混合という言い方がされていますが、
本当は混合されていないんです。
本当に信じられている宗教は仏教じゃなくて神道なんです。僕はそういう風に感じています。
神道であり、神道というものを仏教と認めるか、というのは他のひとつの大きな問題ですけれども。
日本人は仏教徒である以上に神道、仏教が入ってくる前の信仰が強いんじゃないか、と思っています。どうですか?
小沼:先祖の霊がお盆に帰ってくるじゃないですか、日本の仏教は。本当の仏教では帰ってきたりしませんよね。
丹波:仏教はそういうことはないですよ。
小沼:もともとの仏教だったら、本当に涅槃に行ったら帰ってこないわけだし。
丹波:帰ってくる必要がないんですよ。
小沼:つねづねおかしいな、とは思っているんですけど。本流からいえば異端でしょうかね。
丹波:そう思います。それで、帰ってくるために神社があるんです。
小沼:だから神社の中は空っぽなんですよね。
丹波:そうです。そういう意識だから。《白峯》をやってみて、僕は仏教以前の意識が強く日本人に残っている、ということをつくづく感じました。
小沼:そういうこともあってこの上田秋成の(『雨月物語』に含まれる)テクストを選ばれた?
丹波:そうです。それは時間的な偶然というのもあります。僕はキリスト教の作品から作り始めたいな、と思っていたんですけど、
そうしたらちょうどパリの東洋語学校に教えに来ていた日本人の文学者がいて、それが2001年くらいの話なんだけど、その人が台本を書きたいというんです。
だから、書いてみてください、ということで、何をネタにしようか、ということで話し合って、じゃあ、『雨月物語』の一番初めの「白峯」はどうだろう、ということで。
読み直してみたらおもしろいんですね。いいんじゃないか、と。で、その人に台本を書いてもらいだしたのです。ところが、
その人の書いてくれる台本は音楽にならないんですよ。どういうことかというと、僕が上がりたいな、という節の時に、その人は下がる音を使ってきているわけ。
それで僕は一生懸命辞書を引いて上がるような言葉を探して「これを使いたいからこういう言葉に直してほしい」と言うわけですよね。
すると始めのうちは、良いよ、と言っていたのが、あまりに全部替えなくちゃいけないもので、その人が怒りだしたんです(笑)。それで僕に才能がない、って(笑)。
そんなこと言われたって上がりたいな、と言う時に節が下がったらどうしようもないから。だから結局交渉が決裂しちゃったの(笑)。
しょうがないから僕は2、3年やめて、本を書いた。それが『序破急』(音楽之友社 2004.8.10)でした。
それからしばらくして見直してみたら、
これは続けてもいいんじゃないか、と思って、リブレット(脚本)も自分で書こう、ということになった。文章は擬古文で書きました。
現代文じゃ12、3世紀の物語はちょっと語れないよね。だから「そうろう」とかを語尾につけて、文章を偽の古文にしました。
小沼:現代文だと音符に乗せにくい、というのはあると思うのです。
丹波:切りにくいんです。節を止めにくいので。
小沼:文語体になっていると終止形がうまく出ると言う感じですかね。
丹波:そういうこと。擬古文だと文章が終わった後、語尾に何かついてるんですよ。だからすごく良い。
ところが現代文だとパッと終っちゃうわけだから変な終わり方になっちゃう。
小沼:日本でよく演奏される「創作オペラ」は、そういう現代語で書かれているものが多いですね。
だからはじめて《白峯》をチラシで拝見したとき、スコアがちょこっと出ているのですが、擬古文なんだ!、ととても腑に落ちたのです。
じつは、最初、フランス語で書かれるんじゃないか、と思っていたんですけれども。
丹波:フランス語で書いたものもかなりあるんですけどね。
小沼:そうでしたか。残念ながら、それは拝聴できていませんけれど……。今回、
《白峰》の演奏会形式では、オーケストラとオンド・マルトノが二台という、特殊な編成をとられています。
丹波:オンド・マルトノというのは音量を増やすのにすごく良いんだ。弦がすごく少ないんですよ、名古屋のオーケストラ。
小沼:なるほど。オンドがつかってある劇作品といえば、オネゲルの《火刑台上のジャンヌ・ダルク》がすぐ想いうかびますが、
複数の使用ということでは、メシアンの《アッシジの聖フランチェスコ》がありました。4台でしたかしら?
丹波:3台。だから僕は遠慮して2台にした(笑)。
小沼:今はオンド・マルトノの演奏家が日本に何人もいらっしゃいますからいいけれど、
なかなか演奏の機会を持つのが難しいかとおもいます。
◆「オペラ」
小沼:21世紀現在、オペラはいろいろ作られはするけれども、20世紀の途中でピエール・ブーレーズなどは、
オペラはもう終わっているという風に言ってしまいました。それからしばらくオペラはあまり表舞台にでてこなかったりもしましたけれど、
20世紀も80-90年代になってくると、いろいろなオペラハウスが委嘱作品をやったりという状況が生まれ、現在まで続いています。丹波さんからすると、
現在のオペラの機能・意味はどういう風にお考えでしょう?
丹波:正直に言うとオペラというのは、もうあるべき姿にはないですね。というのは、あまりにもお金がかかり過ぎて、現代の音楽界が支える領域を超してしまった形式だと思うんです。
小沼:いま、実際に海外のオペラハウスで、こういう新作が書かれます、初演があります、というと人は集まるかもしれない。でも、それで新しい体験に本当になるのか、あるいはその体験を持ち帰って生活の場で何か考えるきっかけになるか、
というとちょっと難しい気がするのです。もちろん作品の質にもよるのですが。作曲家にとっての芸術作品は、新しい作品を生み出すきっかけであり、ある種の表現であるということは変わらないと思うんでしょうけれども。
丹波:それは変わらないと思う。ところがね、オペラを作曲している作曲家には2種類あると思うんです。
ひとつはオペラばっかり書いている人、例えばヴェルディとかプッチーニとか、ヴァーグナーとか。そういう人たちの作品と、
もうひとつは一生に1作品くらいしか書かなかった人もいるんですね。ドビュッシーにしろメシアンにしろデュカにしろ、ね。
そういう人の音楽の違いをみると、オペラをしょっちゅう書いている人の声のパートは歌いやすく書いてあります。
ところがそうじゃない人のオペラというのは声のパートが器楽に近いようなかたちで書いてあるからなかなか難しいですよね。
そういう風な問題があるんです。
僕の曲は声のパートはかなり器楽的です。歌的じゃない。そういう意味で僕はちょっとオペラという言葉は使いたくないな、という気がしているの。
小沼:そういう意味で楽劇と。フランス語で言い換えるとしたら?
丹波:”Drame musical”。
小沼:日本語を歌うとき、ベル・カント唱法だとどうしても分かりにくいということも起こってくると思うんですが、どうでしょう。
丹波:ベル・カントというのはオペラばっかり書いている人の唱法なんです。
イタリア系の人たちとかが耕して、創り上げてきた唱法なんです。ところが、そうじゃない唱法もあっても良いんじゃないか、という気がする。
僕のオペラは武士がふたり、
乳母がふたり、天皇が3人出てきますけど、そういう人たちが同じフレーズを歌っている。同じ言葉でもって、同じフレーズで歌っている。
ところがモーツァルトなんかはイタリア系の歌の伝統を受け継いでいるんですが、ベートーヴェンなんかはかなり器楽的です。それはやっぱり歌の部分に対するアプローチの違いなんですね。
小沼:例えば演劇をみていると、言葉とストーリーの時間の流れは大体一致しています。ところが、オペラの場合は、もっと進んでいるはずなんだけど、うたは全然進んでいない、ということがあります。現実だったら-------
現実をここに持ちこむのもヘンではありますけれど------一瞬で終わることがアリアでずっと続くように、時間が一種止まってしまうようなところがある。
ストーリーの時間性と言葉の意味の時間性と音楽の時間がみんな違っていてそれが重奏していて、それがオペラになっている。そういう場合、聴き手はリブレットを読んでおくとか、予習しておいた方がいいとか、そういうお考えはありますか?
丹波:なるべく予備知識があった方が良いにはきまっているけれど、そういうものがなくてもわかるような書き方をしてるつもりではありますね。
小沼:そういう意味で、今までの器楽的な作品とは少し違う、と理解してもよろしいんでしょうか?
丹波:いいと思います。特にうたの部分は古い決定音楽的な要素を取り入れているし。
というのはオーケストラでうたの伴奏をするということは容易なことじゃないんです、うたにとって。
ちゃんと拍子を与えないとうたの人がちゃんとついてこれないと思うんです。
だからうたの部分はかなり伝統的な古い書法になっていますけれども、他方、間奏曲や前奏曲など、器楽的な部分はかなり非決定の要素を取り入れて自由に書いています。
小沼:オーケストラの書法では特殊奏法も結構入っているわけですか?
丹波:もちろん。例えば、ある部分なんかはオーボエをリードだけで吹いたり、フルートだと歌口だけとかね。そういう風にして虫の音を出させたりしています。だけどもそれはうたの伴奏と言うような場所ではなく器楽的な場所です。
小沼:オペラというのは、器楽的というか、システマティックな方法はあまりされていないジャンルなのでしょうか。例えばセリーのようには。
丹波:そういう部分も今回の作品では入れてあります。セリーじゃないけども、「十二音ぬりえ書法」というものを使っています。僕はセリーというのは使わないようにしているんです。
セリーは、ピエール・シェフェールが言ったようにヨーロッパ音楽最後の法則なんです。
その書法が出来てから以後書法はなくなってしまった。そういう意味でも使いません。
アルバン・ベルクのように伝統音楽の調性を組み込んだ十二音技法というのも可能なんですが、
それでも僕はセリーを使いません。音楽を死滅させてしまうから。活き活きとした音楽が書けなくなっちゃうから。
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